前回、『日本霊異記』の、日本最古の「狸(ねこ)」の記述について触れました。今回は、その前後の記述を見て、史料に描かれた猫の姿を、少し詳らかにしていこうと思います。
まずは、該当説話の全体を見るべく、検索したところ、すでに同じようなことを考えていた先人がいまして、「ねこ文献index」なるページが見つかりました。こららで、『新日本古典文学大系』を底本とした、該当説話の全文書き下しが見られます。
そもそも、『日本霊異記』は仏教説話集で、その概略は下記の通り。
仏教説話集。「にほんれいいき」ともいう。三巻。薬師寺の僧、景戒撰。弘仁年間(八一〇〜八二四)頃成立。雄略朝から嵯峨朝に至る因果応報説話一一六篇を、ほぼ年代順に漢文体で記述。日本最古の仏教説話集。正称は日本国現報善悪霊異記。霊異記。(『日本国語大辞典』「日本霊異記」の項)
正式の書名に明示しているとおり善悪の応報を語る霊異譚が中心で、仏法の基本原理である因果応報の理が現実に世界を支配し各所に発現していることを説話を通して確認し、それによって信心と畏怖を深めようとする姿勢が著しい。(『国史大辞典』「日本霊異記」の項より抜粋)
『日本霊異記』の上巻・第三十縁に収められた、猫の出てくる話「理にあらずして他の物を奪ひ悪しき行を為ひて悪しき報を受け奇しき事を示す縁」も、そんな因果応報説話の一つです。
ストーリーを至極簡単にまとめると…
- 豊前国京都郡の次官だった膳広国が慶雲二年九月十五日に亡くなるも、三日後に生き返る
- 黄泉の国で体験したことを、広国はありありと語り始める
- 死別していた妻は、夫を憎み妬んだ罪により、苛烈な仕打ちを受けている
- 同じく死別していた父にも出会う
- 父は生前に犯した数々の罪のために、熱した銅柱を抱かされ、鉄釘を37本打ち込まれ、朝300、昼300、夜300、合わせて900回も、毎日鉄の鞭で打たれる
- 父は広国へ、「仏を造り、経を写し、父の罪苦を償ってくれ」と語る
- 父が死んだ直後、飢えた父は、大蛇、狗犬(赤犬=子犬)、そして猫に姿を変え、三度、広国の家に行った。
- 父、米一升を布施すると、黄泉の国での三十日分の食物に…などと、布施による功徳を語る
- 良きにつけ悪しきにつけ、さまざまな生前の報いを目にした広国は、幼い時に観世音経を写経した功徳により、黄泉の国の門を出て蘇生した、と体験の一部始終を語る
- 広国はこの体験談を記録し、世間に広める
- そして、父のために仏を造り、経を写し、三宝を供養して、父の罪を償い、広国自身も正道へと赴いた
(※こちらの、高明寺のサイトにも該当説話の概要が記されています。猫は出てきませんが)
猫が出てくるのは、ストーリー7のところ。正月一日に、亡き父が猫へと姿を変えて、息子の広国の家に来た部分の書き下し文を引用しましょう。
生前に数多の罪を犯した報いを、黄泉で受け続ける広国の父が語る部分の一節。飢えた父は、動物に姿を変えて、現世に現れます。7月7日に大蛇、5月5日に狗犬(あかいぬ:子犬のこと)、正月一日には猫となり、広国の家に現れたと語っています。
猫について考える上で、「大蛇」「狗犬」と、猫との関係性、そして並列の関係にある「五月五日」「七月七日」「正月一日」が気に掛かるところ。
ちなみに、上記の書き下し文の底本とした『新古典文学大系』の註では、
七月七日ヘビ、五月五日イヌ、一月一日ネコ、という叙述が、どのような進行や習俗を背景にもつのかは不明。六八七年七月七日「巳」、六八八年五月五日「戌」、六八九年一月一日「寅」、といった十二支の配列に関係があるか。
との指摘があります。また、『日本霊異記』から後に編纂された『今昔物語集』にも、この広国の説話は収録されており、同じ『新古典文学大系』の『今昔物語集』の第二十巻「豊前国膳広国、行冥途帰来語 第十六」の該当箇所の註釈によれば、
節日に応じて動物の待遇も異なり、猫が最も優遇される。
との指摘がありました。しかし、「虎=猫」と見るのは、他に事例がなく、辞書で調べたところで理解するに、少々無理があるように思えますし、また、節日と動物との関わりも説得力に欠けるように思われます。と、もやっとしながら『新編 日本古典文学全集』の現代語訳と註釈を参照したところ、この疑問に対する回答とするに足る説得力がありました。
死んだ最初の年、わたしは飢えて、七月七日に大蛇となっておまえの家へ行き、家の中へ入ろうとした時、おまえは杖で引っかけてわたしを捨てた。また、翌年の五月五日に赤い小犬となっておまえの家へ行った時は、ほかの犬を呼んでけしかけ、追っ払わせたので、食にありつけず、腹だたしく帰って来た。ただ、今年の正月一日に、猫になっておまえの家に入りこんだ時は、昨夜の魂祭(たままつ)りで供養のため供えてあった肉やいろいろのご馳走を腹いっぱい食べて来た。それでやっと三年来の空腹を初めていやすことができたのだ。(『新編 日本古典文学全集』より抜粋)
つまり、「亡き父が姿を変えた猫」は、前日の大晦日の祖先供養のお供えを、人目を盗んで食べるために、人気の引いた正月一日に、広国の家に上がり込んだ、という解釈です。七月七日は七夕、五月五日は重陽、そして大晦日の翌日である正月一日の共通点は、供え物を捧げて祀る日で、大蛇・狗犬・猫に姿を変じたのはいずれもそれを狙ったとすると、3つの日にちが並ぶのも理解に難くありません。
魂祭りは、現在はお盆に行われる、先祖の霊を迎える祭りですが、『日本国語大辞典』の「たままつり(魂祭・霊祭)」の語誌によれば
平安時代には、一二月の晦の日に行なわれていたことが「後撰‐哀傷・一四二四」の「妻にまかりおくれて侍りける師走のつごもりの日ふること言ひ侍りけるに 亡き人のともにしかへる年ならは暮れ行く今日は嬉しからまし〈藤原兼輔〉」や、「和泉式部続集‐上」の「しはすの晦の夜 なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む里や魂(たま)なきの里」などからわかる。(『日本国語大辞典』「たままつり(魂祭・霊祭」の項より)
とのことで、古くは大晦日に行われていました。もしかしたら、大蛇、狗犬と二度、食べ物にありつくのに失敗したのに、猫となった3回目に、首尾よく食にありつけたのは、先祖供養の祭りだったことも影響しているのかもしれません。
加えて、これは想像にすぎませんが、説話のなかで「猫が供物を盗み食いしてしまう」というシーンが語られているのには、そのシーンを見聞きした経験が筆者にあったか、この説話を受容する階層の人々の間では、ごく一般的に見られる光景だったのではないかと思われます。また、なぜ他の動物ではダメだったのか、という視点で猫がこの箇所に登場した理由を考えると、「猫でなくては入れない屋内」「猫じゃなくちゃ飛び乗れない高台」に供物があったとの想像も膨らみます。平安期の日本人に「猫は、供え物を放っておくと、咥えて持って行ってしまうやつ」という感覚があったとすれば、猫と当時の日本人とは、比較的身近な距離にいたことがうかがえます。
お魚咥えたドラ猫を追っかけるのは、サザエさんの時代ではなく、平安時代から綿々と続いてきた話……なのかもしれませんね。
次回は、また別の史料から、猫の日本史を追憶してみたいと思います。
[Photo by Kevin N. Murphy]
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